そらとみどり

日々の徒然を

小平のオッサンの歴史(6)

高校で進路希望を出すことになった。

 

今思うと、無限の方向性があると思うのだが、当時の選択肢は理系?文系?どっちにするという2択を17歳の僕は迫られたわけである。

 

その頃の僕は、漠然と車が好きだから車に関わる世界に行きたいなぁと考えていた。

そして、車雑誌の編集者を目指す=文系、車を設計する人を目指す=理系と、究極に単純化した思考で文理洗濯をした。

 

結果として、車を作る人間=理系を選択したわけだ。

・・・なぜその選択を僕はしたのだろう?と今でも自分の選択は謎である。

何しろ、好きな科目社会、得意な科目国語、苦手な科目数学・化学・英語ですよ。

ちょっとまて!と当時の僕に言いたいのだが、それは叶わず、理系に進む選択をしたのである。

追々、つい最近に至るまで、そのことが結構な悩みになるのだが、それは追々話すとしよう…

 

さて、文理を選択し、その後は行きたい学校選びとなるわけだ。

とはいえ、前回も書いた通り、学校サボリーマンの僕には、そんなに選択肢はない、というか、選択肢があるということ自体把握していなかった。

そして、なぜか知らないが、当時の僕の思考回路には、我が家の家計を考えると、国公立など、学費の安い学校しか選択肢はない!と思い込んでいたのだ。

奨学金とか、借入金とか、いくらでも選択肢はあるのに、サボリーマン生活の僕には、あらゆる知識が不足していた。

 

そんな中、労働省系の学校があることを知り、大学、短大と受験し、短大のみ合格して、短大の産業機械科に進むことになったのである。

 

ほんと、ちょっと待て!と言いたくなる当時の僕。

しかしそれもまた人生、、、だよね。

小平のオッサンの歴史(5)

中学校では陸上部に入った。

少年野球の仲間たちと、みんなで陸上部に入ろうと決めていたのだ。

 

まぁまぁ足が速かったけど、そうはいっても地区大会敗北レベル。

それでも部員の中も悪くなかったし、陸上部生活は楽しいものだった。

途中で愛されていた顧問が転任になり、サッカー部大好きで、兼任で陸上部も顧問になったクソのような教師だけが残念な点だったかな。

 

このころから悪癖のように、学校行くのめんどくさい病が発生するようになる。

おなかが痛かったり、なんとなく体調悪いなぁという感じ。

学校自体は楽しかったし、不登校…というほど行かないわけでもなく、我ながら、なんでそうなったのかはわからないのだが、なってしまったものはなってしまったのだ。

 

この悪癖は高校に進んでも変わらず…というよりも、学校までの距離が伸びたことが理由なのか、さらに悪化し、2年生の時は、あわや留年の危機にも襲われたのだ。

さすがにそれからはまじめに通ったけれど、これもまた、なぜそうなったのかなぁと、今の自分からすると不思議に思う。

高校に関していうと、1年の時に陸上部で怪我をして、部活に来ないで休めと言われたのが結構大きい要因な気もするな。

 

いずれにしても、今の僕を知っている人からすれば、僕の本質的にはおしゃべり気質があるのはわかってもらえると思うが、中学はともかく、高校は本当に無口だった。

今もSNS等でつながってくれている人からすれば、今の僕は不思議に見えることであろう。

 

ここらあたり、次回でもう少し掘り下げようかな。

小平のオッサンの歴史(4)

おそらく、小学生くらいから「今思うと」案件というのは、だれでも出てくるのではないかと思う。

(僕がそうだというだけなので、果たしてそれが一般的なのかどうかは、何も調査していない。)

 

例えば、僕はおばあちゃん子だったので、毎週のように、週末になると、おばあちゃんの家に遊びに行っていた。

それはそれでとても楽しかったし、とても良い日々だったのだが、今思うと、同級生と遊ぶチャンスを逃していたのでは?と思ったりすることもある。

平日は遊んでいたのだから、そんなこと気にすることあんめぃ…という声も聞こえてきそうだが、なんとなく僕はそう思ってしまうのだ。

 

そして、わかりやすく内弁慶気質、人見知り気質も、徐々にこのころから出てきた気がしている。

これは、なぜそうなるのかなんてわからないが、そうなものは仕方がないとしか言いようがないもので、もし理由がわかるなら、今まさに絶賛内弁慶&人見知り期間中の僕のムスコにも対応をしたいものである。

 

唯一あるとすれば、我が家や、祖父母の家など、いわゆる身内の居心地があまりに良くて、社会という修羅の世界に飛び込んでいくことを拒否していたのかもしれない。

しかしそれは、ある意味幸せなことなんだけど。

 

さて、次は中学高校の頃の話。

小平のオッサンの歴史(3)

小学生になったボク

 

このころはまだそこまで人見知りっこでもなかったと思う。

日々遊び、公園や、砂利の月極駐車場や、お世辞にも広いとは言えない自宅前などで、野球やサッカーに興じ…

 

今思うと恐ろしいことをしていたもんだ。

 

今だからこそ白状するが、当然車にボールも当たるし、近所にあった塾の先生にはいつも「うるさい!」と怒鳴られたりしていた。

当時はおめーのほうがうるせーなー!と思ったりしたもんだが、この年になって思う…先生がすべて正しいですと。

 

令和の時代じゃありえないような子どもだが、当時はある種寛容な心もあったような気がするのだが、それは気のせいじゃないよな?

 

小学校も後半になってくると、ファミコンが登場し、その中でもディスクシステムを持っているのは、友達連中でも少なく、たまたま持っていた我が家のディスクシステムは人気だった。

 

その後、子ども会の野球部に入部して、野球を頑張った。

小6の時、めっちゃ弱くて、僕の記憶の限り、年間1勝しかしなかったように記憶している…時には20点以上失点して負けたような記憶も…

でも楽しいんだからオールオッケーさ!…ほんとか?

 

あと…残っている記憶をさかのぼると、因縁つけられたとか、多分今となっては、どうでも良い理由で、近所の小学校とけんかになったなぁ。

でも、少人数で行くはずが、噂が広まり、俺も行く!私も行く!と、男女関係なく、クラスのほぼ全員で乗り込むという謎行動に発展。

そして、市役所脇の公園で、なぜか選抜制の相撲対決が始まり、ふと気が付くと、オトナたちに発見されるというオチ。

 

当時の担任の先生に、こっぴどく怒られた、、、というか、普通にゲンコツ喰らった。

でも、5,6年時の担任の先生は、今振り返っても本当に良い先生で、怖いところもあるけど、子どもたちのために親身になってくれるし、子どもたちと一緒と思わせる空気感があって、本当に尊敬していた。

だから、ゲンコツ喰らっても、まぁしょうがないよねと思える信頼関係はあったように思う。

 

あっ、今ゲンコツとかやったらやばいですよね。

でも、お互いの信頼関係があればよいと思うんだけどなぁというのは、昭和のオッサンの発想なんだろう。

 

そんな小学校生活だった。

小平のオッサンの歴史(2)

周りにはいつも「小平生まれ小平育ちなんすよ~」と言っていることを謝罪しなければなるまい。

 

実は生まれたときは、東小金井に住んでいた…らしい。

そして、産まれた病院は杉並区だ…そうだ。

今もその病院は現存しているが、退院してこのかた、行ったことはない。

 

〇〇生まれという言葉が、生まれたとき住んでいた土地なのか、それとも産まれた病院の所在地なのか、どちらを指す言葉なのか、ボクの中ではあいまいだ。

でも、産まれた病院についても、生まれたとき住んでいた家(1歳になる前後に小平に引っ越した)についても、ボクは記憶にない…ゼロ歳だし。

 

僕の記憶の中では、最初から小平に住んでいた。

だから小平生まれで良いですよね?ね?ね?

 

小平生まれのボク(開き直り)

母親は専業主婦だったので、保育園に行くことなく、社会との交流のスタートは幼稚園だった。

断片的な記憶しかないのだが、とにかく母親と離れるのが嫌で、卒園するまで毎日泣いて騒いでいた…このへんは、母親に散々聞かされていたエピソードがメインなので、本当かどうか、ボク自身は定かではない…が、恐らくそうだったのだろう。

 

すくすくと”泣きながら”育ったボク。

その頃は、人見知りとかもなく、濃い個性を発揮することもなく、みんなと仲よく遊んでいたんじゃないかと思う…うっすらとした記憶だが。

 

そして、ボクは小学校に入学する。

小平のオッサンの歴史(1)

タイトルだけ見ると、誰も興味を持たないであろう。

しかし、書きたいことがソレなのだから仕方あるまい。

 

総じてみれば、平凡な人生を歩んでいた…ような気がするボク

ところがここのところ、自分でも予期せぬ変化が生まれているのである。

 

まぁこれもまた、長い年月(永井敏次と誤変換されるのはいったい何なんだ?)で考えれば、平凡の一部なのかもしれない…

 

なるべく早く、リアルタイムの話をしたいと思っている。

リアルタイムになった瞬間に、記事のタイトルが「小平のオッサンがバタバタ走る日々」にしようと心に決めているくらい、早くたどり着きたいのだ。

…ブログを記すのも、リアルタイムの話に繋げるため…しかし、気が乗らなきゃ平気で放置するB型気質のボクが、自分的期限までにたどり着けるのかは、自分すらわからない…

 

久しぶりに書くブログで、どうせなら過去から現在まで記した方が面白いと思った次第…実は、自分の周りの出来事が多すぎて、言葉で残しておかないと忘れちゃう~!やだやだ~!っと、老化していく脳の補完作業として書いてみようと思ったことは…秘密だ。

 

こんなこと書くと、なんかすごい人生なんじゃない?波乱万丈なんじゃない?面白いお話なんじゃない?と思われそうだが、上にも書いたように、平凡な人生を歩んできたのだ。

期待をするなかれ。

オッサンの老化予防の手仕事である。

 

そんなこんなで、次回から少しずつ記していくことにする。